『優香ED2 さようなら、お兄ちゃん 挿話』 「うちの妹のばあい」二次創作 注意:  この作品は、イージーオーから販売されている『うちの妹のばあい』の人物・世界設定を使用しています。  作中に登場する団体・人物の名称は、全て架空のものです。                         2003/06/02:初版  :sugich                         2003/06/03:修正  :sugich                         2003/06/04:修正  :sugich ------------------------------------------------------------------------------  俺はグラウンド裏で、一人、彼女が来るのを待っていた。  フェンスにもたれてぼけーっと空を見る。七月の少し暑い風がシャツの袖をパタパタと揺らす。グラウンドの方からは運動部の重なった掛け声、ブラスバンドの練習する音が聴こえる。いつもと変わらない日常だった。  そう、優香ちゃんに「和樹君、ちょっと話したいことがあるの」と言われて、ここに来るまでは。  ……いや、違う。  日常と違ってしまったことになんとなく気付いたのは一ヶ月ほど前から――達也と優香ちゃんと虎牙の間になにがあったのかを、達也が何を決心したのかをそれとなく知ってしまってからだった。  叫び出したいものがあった。どうしようもなくどす黒い怒りがあった。虎牙を殺したいとも思った。そして優香ちゃんを許せなかった。俺は何も考えずに彼女を問い詰めてなじった。達也に殴られた。優香ちゃんを泣かせてしまった。俺なんかよりも一番傷ついていたのは二人だったのに。  バカは俺だった。後で達也には謝った。本当は優香ちゃんにも早く謝るべきだったけれど、バカな俺はまだ迷っていた。それが数日前のことで。  だから俺は、今日彼女から「和樹君、ちょっと話したいことがあるの」と廊下で言われて、正直どんな顔をしていいかわからなかった。ただ「わかった」と頷くことしかできないでいた。       §  カサと土を踏む靴の音。  もたれていた背を戻して、その音のした方に声をかける。 「や、優香ちゃん」  できるだけ普通の声を意識して出す。  何を言っていいかわからず、数歩歩いて彼女の前に立った時に出た言葉は結局この一言「この前はごめん」だった。  俺の言葉に彼女は首を横に振って答える。 「ううん……わたしは、和樹君に軽蔑されて当然だから。ごめんね」  自嘲的な笑み。  胸が痛む。  俺はこんな彼女の言葉を聞きたいと思っていたわけじゃなかった。けれど何もそれ以上言えない。どうしようもない沈黙が続くだけ。 「今日はね、和樹君にちょっと教えてもらいたいことがあって……忙しいのにわざわざ呼び出しちゃったりして、ごめんね」 「いや、別にそんなに忙しいってわけじゃないし」  繰り返される「ごめんね」。  彼女はこの言葉を何度繰り返しているのだろう。 「で、聞きたいことって?」  気をなんとか取り直して答える。  優香ちゃんは俯いて、少しだけ逡巡してから顔を上げて、言った。 「うん、今日聞きたかったのはね……教えて欲しいのは。  お兄ちゃんが野球をやめた原因の一つ、中学の時にどうしてあの人を殴ったのか。そのこと。  お兄ちゃんに聞いても、詳しいことはあいかわらず教えてくれない、から」  全然予想してなかった内容だった。というか、呼び出されたことだけで頭がいっぱいであまりその話自体については考えてなかった――あったとしても「赤ちゃんのこと」関連かと思っていた――というのが正直なところなんだけれど。  だから何故か少しほっとした。優香ちゃんが聞きたいことがあいかわらず達也のことだったという、以前と何も変わらないというそのことだけで、これまでのもやもやとした黒い感情が少しだけ消えたように思える。  そしてやっぱり本当のことは話せないと思う。彼女をもっと傷つけてしまうことが分かっていたから。 「えーと、でも、あれだ。  前にも言ったけど、達也が教えてないなら俺」 「多分、わたしのことが原因なんでしょ。だから教えてくれないんでしょ?  和樹君、答えて、お願い」  その真剣な声と目に吸い寄せられる。  誤魔化すことなんて出来ない目、逸らすこともできない……観念するしかないのか。  結局、どんなに悲しいことでも、隠すよりも話すべきことがあるということなんだろうか。そうでなければ余計にすれ違い傷を大きくしてしまうだけ。達也も優香ちゃんも、今こそそれが必要な時なんだろうか。  やれやれという表情を作って、溜息を一つ。 「……はぁ、まぁ、口に出さなくてもあいつのそういう態度自体が雄弁に語ってるってことだよな、やっぱ」  苦笑気味に答える。 「やっぱり……そうなんだ」  視線を地面に落として、つぶやくような声。  大きく息をしてから、俺に向けてもう一度顔を上げる。  彼女の目を見る。その中には迷いも苦しみも見える。けれど逃げることはもうしたくないという決意もあった。それが分かったから俺も目は逸らさない。 「俺も……その場に直接居たわけじゃないから、完全な事実っていうか詳細は知らない。あいつから聞いたことと部員たちからそれとなく伝わった程度でしか知らないけど、それでもいい?」 「うん」 「でもな、これを聞いても自分を責めたりしちゃだめだぞ、優香ちゃん。  あいつにとって、それは絶対に許すことのできなかった事で、後悔なんて絶対にしてないはずだから」 「……うん」  大きく息を吸う。  空を見上げる。  なんとなく、告白でもされてその返事をどうしようか、みたいなバカなシチュエーションの妄想がふと浮かんだ。なんだかな、俺。 「……優香ちゃんの考えているとおりだよ。  あの時、達也が放課後部室に行った時に、虎牙と他の部員達が一緒になって……二人を侮辱する酷いことを言って笑っていたいたらしい。内容については俺も知らない。けれど止めに入った時に達也が口走っていたことから考えても、よほど酷いことを、一番大切に思っているものを土足で踏みにじるようなことを言われていたんだと思う。  達也はそれが絶対に許せなかったんだろうな」  一気に言い終えた。  沈黙。  そして……涙。 「……そんな、こと。  そんなこと……わたしなんかのために、お兄ちゃん、は……」 「……」  震える唇。零れ落ちる涙。 「お兄ちゃん、言ってた。お母さんがいなくなって、もう誰もいなくなって、優香が家で寂しい思いをしてるから、早く帰るために野球をやめたけど、別にそれだけが理由じゃないって。  ちがうじゃない、ウソじゃない……」 「優香ちゃん」  悲しい痛々しい声。  だから言いたくなかった教えたくなかった、俺も達也も。  けれど全てもう知るべき時だった、彼女自身ががそれを選んだ。 「全部、ぜんぶわたしのせいじゃないっ、お兄ちゃん」  彼女の言葉に怒りと悲しみがわきあがった。悔しさが溢れた。何故わからないのか! 達也の気持ちが!  ギリと拳を握り締めて叫んだ。 「わたしのせい、なんて軽々しく言うなッ!」 「言うよっ!  わたしが、お兄ちゃんから奪ったんだ、野球をっ、夢をっ。  お兄ちゃんの夢を奪って……それなのに、わたし、そんなお兄ちゃんを裏切って、信じられなくて、あの人に抱かれて、お兄ちゃんの心をめちゃくちゃに傷つけて、それなのにまたおにいちゃんに甘えて、お兄ちゃんの優しさにつけこんで、そんなの、わたし、ぜんぜんダメだよ。わたし、最低じゃない……最低、だよぅ」  地面に膝をついて泣き崩れる彼女。  悲しい悲しい、嗚咽の声が響く。  悲しい悲しい、その思いが俺にも届いて……力が抜けたように拳を解いた。  そして思う。俺はだからこそ彼女に伝えなければならないんだろう。  今、この時に。 「怒鳴ったりしてごめん。  でも、優香ちゃん……『わたしなんか』なんて言うもんじゃない。  それはきっと、あいつをひどく悲しませる言葉だから」  俺は腰を落として、彼女の肩に手をそっと置く。彼女は自分でこの悲しみを受け入れなければならなかった。俺は抱きしめることはできない、いや、あえてしなかった。俺がすべきことは、俺の知っている達也の真実を彼女に伝えることだったから。 「ちょっと昔話をしようか、優香ちゃん。  ……達也はさ、ずっと優香ちゃんのことを見ていたよ。本当に、ずっと昔から。優香ちゃんが意識してる以上に。  まだ俺やあいつが小学校のリトルリーグやってた頃で、優香ちゃんが初めて試合を見にきた時があった時のこと、覚えてる? その時、優香ちゃんが来るまではあいつ本当に全然打てなかったんだぜ。それがどうだい、優香ちゃんの『がんばってお兄ちゃん』ってな顔をパッと見つけただけで、それまでのバッティングをひっくり返すようにめっちゃキメやがった。  俺は思ったよ、あぁ、あの子が達也にとっての勝利の女神で、カッコイイところを見せたい大好きな女の子なんだってな。  男は、そんな大好きな女の子のためなら、一番の女の子のためならなんだってするもんだ。その子が幸せになれるように頑張れるのが本当の男ってもんだ。  優香ちゃんのお兄ちゃんは――達也は本物の男だよ。どこに出してもカッコイイ、最高の男だよ」  しゃくりあげる声。泣き声。  だからこそ俺は、それでも彼女にきちんと聴こえるように、ゆっくりと、はっきりと、心を込めて、本当のことを伝えよう。 「そんな男に愛されてる優香ちゃんだってそう、お兄ちゃん思いの優しくて可愛い最高の女の子だよ。  知ってるよ、俺は。達也の重荷になるのがイヤだったんだろう? 野球を諦めたあいつがもう一度夢を追いかけることができるようにって、だからあいつから離れようとしてたんだろう?  大好きで大好きで仕方ないのに、それを我慢して、達也のためを思ってそうしてたんだろう? 寂しくて悲しくても、達也の幸せを願っていたからこそ、そうしたんだろう?  俺はちゃんと知ってる、君の目がいつも誰を追いかけていたのか。  カッコイイわりに鈍感なあいつとは違うからな」  最後だけ苦笑まじりの声で言う。  けれどそれは、真実の言葉。 「だから、自分のことを『最低だ』なんて言っちゃだめだ。  もしも優香ちゃんがそんなことを言い続けるなら、それこそ本当に最低なことだよ。自分を貶めて、自分を愛してくれている人のことまでも同じように不幸にして貶める最低の人間になってしまう。それこそが、一番不幸なことだと俺は思う。  優香ちゃん。君は達也を不幸にしたいかい? 幸せになって欲しくはないのかい?」  俯いたまま首を横に振る。 「なら、顔を上げて、俺にちゃんと答えて。  優香ちゃんは達也に、お兄ちゃんにどうなって欲しいのかをちゃんと答えて欲しい」  小さな嗚咽の声はまだ漏れ続いている。  その間、俺はただ彼女の答えを待っていた。  長くもない、短くもない時間が過ぎて。  彼女はようやく、その泣き腫らした顔を上げた。  涙はまだ止まってはいない。 「わたしは……わたしはお兄ちゃんに……幸せになってもらいたいよぅ」  俺は微笑んで言った。 「なら答えは簡単なことだよ。  あいつの幸せは、あいつのすぐ側にある。  あいつの願う幸せは、ただ一つだけだ。  優香ちゃん、今もまだ、君は泣いているよね。  でもそれは、自分を責めて、悲しいから流している涙じゃ……いけない。  その涙は、優香ちゃんが達也に愛されて、幸せだからこそ流している嬉し涙のはずなんだから」  俺が何を言っているのかわからないという表情。  だからこそゆっくりと、一つひとつ噛み砕いて、決して間違わないよう、心がすれ違わないよう、心を込めて伝えよう。 「幸せだよ、君は。悲しむことなんて一つもないんだ。  あいつが言ってくれたんだろう、優香ちゃんを愛してるって、一緒になろうって……お腹の子供は二人の子供だって。だったら、それが真実だ。嘘なんてどこにもない、たった一つの真実だ。  前のようにわざとあいつにそっけないふりなんてしなくていいんだ。『自分が悪い』とか『自分は達也の側にいる資格が無い』なんてのは優香ちゃんの思い違いだよ。思いっきり甘えてやればいいんだ、人がうらやむぐらいに。  もしもあいつが幸せになれない、つまり不幸になるとすれば、それは優香ちゃんが達也の側からいなくなってしまうこと、いつまでも自分を責め続けて不幸になってしまうことだけだ。それ以外のどんな苦労だって、それは決して『不幸』なんかじゃない」  そうして俺は、俺の知っているあいつの一番の夢を彼女に伝えよう。 「優香ちゃん、これは俺からの頼みだ。  どうか、あいつの夢を叶えてやってくれ。  野球よりも大切な一番の夢、優香ちゃんを幸せにするっていう夢をさ。  あいつが前に俺に言ってくれた夢は、そうだったよ。いつの間にか、そうなってたって言ってた。何よりも大切にしたあいつの夢、あいつの願う幸せだよ」  俺は微笑んだ。男の最大級の微笑みだ。  俺の好きな女の子と俺の親友とが幸せになれるように願う、完全無欠の微笑みだ。  優香ちゃんの瞳から、また涙が溢れ出す。  それこそ間違いなく、二人の未来へと繋がる『幸せだからこそ流している嬉し涙』だと俺は思った。 「さあ、いくら嬉し泣きでもいいかげん泣き止まないと、目のまわりがパンダになって達也にはとても見せられないみっともない顔になるぞ。  ていうか、もしも俺と優香ちゃんが話していたことがバレたら『優香を泣かしたヤツは許さん』ってな調子でなにされるかわからんからな。俺の身が危うい」 「……うん、うん。  ごめんね、和樹君……『身を危うく』させちゃって、ゴメンね。  えへへ」 「その顔だ。  嬉し涙の泣き顔も可愛いけど、幸せに笑ってるのが一番だよ、優香ちゃんは」  俺は彼女に手を差し出す。  二人で一緒に立ち上がる。  屈みこんでいる時間はもう終わり、これからは今一度、歩き出す時間だから。 「それとな、俺からもう一つちゃんと言っておきたいことがある」 「なに?」 「俺は、何があっても達也と優香ちゃんの味方だから。それを忘れないでくれ。  もちろん奈々子ちゃんだって純子先生だってそうだ。二人が幸せになってくれることは俺達皆の願いなんだ。  今日みたいに、なにか困ったことや聞いて欲しいことがあったらすぐに相談して欲しい、イヤなことがあったらグチをこぼしに来てもらってもいい、犬も食わない夫婦ゲンカをしたなら前のように一日家出しに来てもいい。なんでもいいんだ、力になるから」 「……ありがとう、和樹君。本当にありがとう」  夏の陽に映える、彼女の笑顔。  ようやく戻ってきた、そんな気がした。       § 「今日はありがとうね、和樹君」  ハンカチで涙を拭いて、スカートを直して。太陽の下に戻っていこうとする彼女の姿を俺はじっと見つめていた。  俺の言葉はちゃんと伝わったから、もう大丈夫だと信じられる。  そこで俺は、立ち去ろうとした彼女にもう一度声をかけた。 「そうだ、最後にもう一つアドバイスしよ〜う。  あいつのこといつまでも『お兄ちゃん』じゃなくて、名前で呼ぶとか、『あなた』とか『ダーリン』とかこっぱずかしい呼び方で呼んでやれよ。そしたらスゲー喜ぶぜ、きっと。  つーか、やっぱり『パパ』、これだな」  親指を立てて、ウインク。  応えて返されるのは、笑顔。 「うん、ちゃんと今日から言うよ。  お兄ちゃんに――達也さんに思いっきり甘える」 「それがいい。  じゃぁ、また明日な」 「ありがと、また明日、和樹君」  長い髪とスカートをひるがえして部室棟の向こうへと消えていった彼女を見送る。  今の去り際の「また明日」は、本当に普通の日常的な「また明日」だった。ここのところずっと感じていた、何かがズレていたような感覚はもうどこにも無い。  グラウンドの方からは運動部の重なった掛け声、校舎からはブラスバンドの練習する音が聴こえる。帰ってきた日常は昔とまったく同じではないけれど、それは当たり前のことだった。なにかが終わって、新しい未来が見えている、それだけのことだと思う。  多分、これからあの二人のことを巡って色々と大変なこともあるだろうし、俺の今日の言葉だけで二人の間にできてしまった溝全てが簡単に埋まるとも思わない。  けれどそれは優香ちゃんにも言ったように、あくまで苦しいことや辛いことではあっても決して『不幸』ではないと信じている。壊れてしまったものは、もう一度築いていけばいいのだと信じられる……あの二人なら。  七月の風が吹く。  ヒグラシの声がまさに夏を感じさせる。  少し遅れたけれど練習に行かなきゃなと、俺はフェンスを離れて歩き出した。  かつて一緒の夢を追っていた親友は、今は、もう一つの大切な夢を叶えようとして再び歩き出した。進む道は違っても、昔とかわらない友情が俺達の間にはある。あいつの隣には彼女がいて、彼女の隣にはあいつがいる。その二人の未来へのちょっとした手助けをすることぐらい当たり前のことだった。  なにより、好きになった女の子の幸せを願うのは当たり前のことだ。  幸せに、なれよ。  俺は、今、本当の意味で初恋にさよならした。                                     おわり