柏木家の楽しい夕飯のひとときを描いたほのぼのストーリー。 |
作者:sugich |
「今日の晩メシは、な〜にかな?」
そう言いながら俺は初音ちゃんの横から、お鍋の中を覗き込むようにして、その金色の大きなフタを取ってみた。
むわっっと、いい香りのする白い湯気が目の前に広がる。
おいしさがいっぱい詰まった、湯気だ。
俺は一息ぶんその香りを楽しんだあと、今度はきちんと初音ちゃんに『ただいま』を言った。
ちょっとビックリしたようだった彼女は、『おどろかさないでよ、耕一お兄ちゃん』と、少し怒ったようなポーズを取ってから、
「おかえりなさい」
と、いつもの笑顔を見せて俺を迎えてくれた。「そっか、今日はおでんなんだ」
「うん」
「そっか、そっかぁ〜、おいしそうだなぁ」
「お兄ちゃん、居間の方で待ってて。
まだお姉ちゃん達も帰ってきてないし……あ、千鶴お姉ちゃんからはさっき電話があって、今日は早めに帰れるからって言ってたけど……でも、お夕飯にはまだ時間があるから」
「そう? でも、もうちょっとだけここに居させてよ」
「それはいいけど……」
初音ちゃんは少し首をかしげてから、またいそいそと晩ご飯の準備に戻っていった。
なんとなく、さっき俺が台所に入ってきた時よりも嬉しそうに見えるのは、気のせいだろうか?
「なにか手伝うこと、ない?」
「う〜ん……それじゃ、みんなの食器とか出してて。
誰がどのお茶碗とか、お兄ちゃんわかる?」
「だいたいはわかるよ。わかんなければ、初音ちゃんに聞くからさ」
「うん、お願いね」
俺は椅子からよっこらしょと立ち上がると、水屋の前に立って食器を出しはじめた。
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♪…おでん おでん おいしいおでん
おいしいおでんが 食べたいな
おでん おでん あったかおでん
あったかおでんが 食べたいな〜 ♪そのうち、おでんのいい香りにつられたのだろうか?
知らないうちに俺の口からは、ハミングのような小さな声で歌が流れはじめていた。
懐かしい、子供のころによく聞いたことのある歌。
楽しくて温かい想い出………母さんの『おでんのうた』だ。
「この歌………知ってるよ、わたしも」
「え?」
俺の歌声が聞こえたのか、初音ちゃんは包丁のトントントンという音を止めて、小さな声でそう呟いた。
「ずっと昔……耕一お兄ちゃんがよく遊びにきてた頃。
わたし、聞いたこと……ううん、一緒に歌ったこと、覚えてるよ。
この歌、おばさんが歌ってたよね……おかあさんと一緒に」
そして、今度は明るく楽しそうな声で歌い出す。♪ おでん おでん やわらかおでん
やわらかおでんは おいしいな
おでん おでん ほくほくおでん
ほくほくおでんは おいしいな〜 ♪歌のリズムに合わせて、赤いリボンで結んだ髪が軽く上下に揺れている。
♪ まぁるいたまごに さんかくコンニャク
おおきな輪っかは だいこんね ♪「ね?」
歌いおわった初音ちゃんは、肩越しに俺の方をくるりと振り向いた。
その姿が一瞬だけ、懐かしく、今はもういない母さんの面影と重なる。
俺は惚けたようになった。
テーブルに食器を置こうとした両手は、その形のまま動かなくなった。
目頭に、少し熱いものを感じた。
「あ……いや…」
俺はそんな顔を初音ちゃんに見られたくなかったから、首を振って俯いてしまう。
そのまま顔を見られないようにしてテーブルをぐるっと周り、ガスコンロの前、おでんがグツグツと煮えているお鍋の前にもう一度立った。
そして、おもむろにフタを開けて、その香りの湯気を顔にあてるようにした後………俺のそんな態度にちょっと不思議そうな顔をした初音ちゃんに、ようやく微笑みを返すことが出来た。
「あぁ……初音ちゃんの歌どおり、ほんとうにおいしそうに煮えてるよ。
やわらかくて、おいしそうに、さ」
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♪ ちくわ つみれ いか巻ごぼう巻
みんなが食べたい ガンモドキ ♪楽しげな歌声が台所に響いている。
そこに突然、今度は茶目っけ溢れる元気な声が一緒に重なった。
「ちっちっち……それだけじゃ、おいしいおでんにゃならないよ♪」
その声に驚いた俺と初音ちゃんは、入り口を振り返る。♪ おでん おでん たっぷりおでん
たっぷりおでんを 食べたいナ
おでん おでん おいしいおでん
おいしいおでんを 食べたいナ〜忘れちゃいけない うま味のヒケツ
くるりんこんぶの おいしいおダシ
コクを出すには 牛さんスジ肉
こいつを忘れちゃ いけません〜 ♪「ってね。たっだいま、初音、耕一」
「ぁ、梓お姉ちゃん」
「よ、おかえり」
「遅くなってゴメンな、初音。
ちょっと……かおりのヤツにつかまっちゃっててさ〜」
苦笑いしながら、両手をあわせて『ごめんッ』のポーズを取る梓。「でさ、そこで楓とも一緒になったんだけど………ほら、今度は楓の番だよ」
ニヤニヤしながら梓が体を横にどけると、その影に隠れていた楓ちゃんが、ひょこっとおかっぱの頭を覗かせた。
彼女は少しもじもじとしていたが、意を決したように目をつぶると、澄んだ小さな声で歌いはじめる。♪ おでん おでん いっぱいおでん
おなかいっぱい 食べたいな
おでん おでん みんなとおでん
おなべをつついて 食べたいなまぁるいたまごに さんかくコンニャク
おおきな輪っかは だいこんね ♪「楓ちゃん…」
嬉しくなった俺は、その澄んだ声に合わせて、一緒になって歌い出す。
初音ちゃんと梓も、クスっと笑って顔を見合わせると、次の小節からソプラノとメゾソプラノの声を重ねあわせた。
その声に楓ちゃんは、ちょっとびっくりしたように目をあけて……。
次の瞬間、ニッコリと、頬をすこし赤らめた可愛い笑顔を俺達に見せてくれた。
そして、さっきよりも少しだけ大きな声で続きを歌いはじめる。♪ できた できたよ おいしいおでん
おなべにいっぱい できました
おなべをおいて おさらを取って
みんなでいっしょに食べようね
みんなでいっしょに食べようね!!♪
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キッ……という音をたてて、黒塗りのリムジンが柏木家の表門前に止まった。「今日もありがとうございました。明日も、よろしくお願いしますね」
運転手にいつものように声をかけると、千鶴は開いたドアからスラっとした脚を地面に下ろす。
ヒーターの効いた車の中から外に出ると、厚着はしていてもさすがに寒さの厳しい季節なのだろう、ブルっと身体を振るわせてから、足早に門の前までかけてゆく。千鶴の姿が門の中に消えたことを確認すると、運転手は車を静かに発進させた。
「今日は早目に帰れたから、お夕飯の手伝いでも…………あら、そう言えば今日の献立は何の予定だったかしら?
……そうね、寒いことだし、お鍋なんてありそうよね。
それにお鍋だったら、私が手伝ってもきっと大丈夫。だって、お味噌とかお醤油を入れて煮るだけですもの、きっと私でもおいしく出来るわ……多分」
そんなことを考えながら、カッカッとヒールの音を響かせながら玄関まで足早に歩を進める。がらららっ。
「ただいま」
そう言って玄関を開ける。
すると、三和土で靴を脱ぎはじめたところで、耳に響いてくる楽しげな歌声に彼女は気づいた。
「……この歌は………梓、初音、楓、それに耕一さん…」
台所から聞こえてくる明るく楽しいメロディは、千鶴の心に、何かとても温かで懐かしいものを感じさせた。……少しの後。
その懐かしさの原因が何処にあるのかを思い出した彼女は、『くす』と柔らかに微笑むと、♪…おでん おでん おいしいおでん
おいしいおでんが 食べたいな
おでん おでん あったかおでん
あったかおでんが 食べたいな〜♪皆の声に合わせて、自分も小さく歌いだしていた。
〜おしまい〜