あの事件からしばらく経ち、冬は終わり、春風が吹く季節がやってきていた。 |
作者:sugich |
学校のすぐ近くにあるJR駅前には、桜が植えられている。
太くどっしりとした幹からいくつもの枝を伸ばした、大きな桜が三本。円周四十メートルぐらいの楕円の緑地部分に、力強く根を張り、そこに在る。
緑地は一応立ち入り禁止ということで、周りをぐるっと低い柵で囲われていて、柵の周りには、いつも通学や通勤の自転車がこれまた輪を重ねるように、ずらっとその頭を桜の方に向けて並べ揃えている。僕は、そんな自転車の列と、駅から出てくる人と駅に向かう人の合わさった人波と、ざわめきに囲まれた桜の樹とをいつも見ながら、登下校してる。
朝は少しだけあわただしく。
夕は少しだけのんびりと。一週間後は三学期の終業式で。
その終業式に合わせるようにして、桜の花咲く季節はやって来ていた。
昨日の夜見ていたニュース番組で、桜前線がもうすぐそこまで来ていることを、いつものアナウンサーがいつもの薄い笑顔で僕に教えてくれた。
駅前の桜は、何故か他と比べてニ〜三日遅く咲くので、来週の頭、ちょうど終業式の日ぐらいに、ピンク色のつぼみは、ほころび始めたその小さな花びらを一斉に開いて満開となるだろう。
それは、吹く風が少し優しくなってきた季節の、昔から変わらない風景。
子供の頃から今まで、ずっと昔から変わらない、桜の在る風景。
……いや、違う。
少し前までは、僕はそんな風に桜を眺めることはなかったように思う。
去年も、一昨年も、僕そんな風に桜を見ることはなかった。桜の花びらで連想するもの。
汚らしい酔っ払いの大人達、散った後の花びらが舗装された道路に落ちて、それが靴でふまれてグチャグチャになっている様――特に風の強い日の翌日の朝とか――。
卒業式。校歌斉唱、仰げば尊し我が師の恩。
年度の終わり、別れ、嘘くさい涙。
新学期。始まり、自己紹介、嘘くさい作り笑い。「毎年毎年、どうしてこんなモノを散らせるんだろう、本当に嫌になる。
それだけじゃない。
毎年毎年、別れの言葉を交わす偽善者達も嫌だ。
うざったい挨拶をしなくちゃならない、新しい環境も嫌だ。
そして、そんな嫌なことばかりを象徴するような桜は、いちばん嫌な花だ、僕は大嫌いなんだ…」そんなことばかり考えていた。
嫌なことばかり考えて、嫌なことは全部自分とは違う関係ないモノだと考えて、自分だけはそんな嫌で嫌でたまらない、くだらなくて汚いモノとは違う特別な存在だと、「僕は特別だから、
誰も僕を理解できないし、僕は誰も理解する必要なんてない」そう自分に繰り返し言い聞かせて……。
…目の前にある嫌なことに背を向けて、背を向けたつもりが、本当はそれだけしか考えられなくなっていたことに気付かず、嫌なことと一緒に『いいこと』も何一つ見えなくなって……いつも一人で居ようとしていた。
一人で居るのが楽だったから。
他に何も考えなくてよかったから。
一人で妄想の世界に閉じこもって、くだらない奴等をすべて焼き尽くす夢を見ることこそが、何処にいるかわからないけど何か素晴らしい存在に選ばれた僕に、ただ一人の自分だけに与えられた特権だと信じていたから。
それが、少し前までの僕だった。
あの日。
瑠璃子さんは、二人以外誰もいない屋上で、僕に「特別な才能があるよ」と言ってくれた。
でも、その特別な力で僕と沙織ちゃんを苦しめ、果ては彼女を殺そうとまでしたのは、元生徒会長で瑠璃子さんの兄である月島さんだった。
そして、その特別な力から二人を救ってくれたのは、他ならぬ瑠璃子さんだった………僕は何もできなかった、瑠璃子さんが言ってくれたような特別な力が発動することは無かった。
もしも、選ばれた者だけに与えられる特別な才能が本当に僕の中に隠されていたとしても、肝心の時に僕はそれを使って好きな女の子を守ることさえ出来ない、ただの高校生にすぎなかった。
選ばれそこねた、ただの一般人だった。
そして、そんな僕を置いて、瑠璃子さんは月島さんと二人でいってしまった……。沙織ちゃんは、僕と彼女以外誰もいない校内調査行の途中、「みんな本当は気が狂いそうなの。嫌なことから逃げ出したくて、でも逃げ出せなくて悲鳴をあげているの」と、自分の胸の内を吐き出した。
僕とはまったく正反対で、社交的で明るくて、だれにでも好かれそうな彼女の口から出た言葉は、僕がいつも心の中で考えてることと同じだった。
彼女は、何か素晴らしい存在によって選ばれた、特別な力を持つ人間じゃない。そう、元気でかわいくてはきはきしてて、表情のコロコロとかわる…ちょっとHな――でもそれだけの、ただの人間だ。
だけど僕はそんな沙織ちゃんを見てると、本当に不思議な娘だなと思う。
彼女と一緒に居ると、僕の心の中にある暗く淀んだ思いはどこかへ行ってしまう。
地球に住んでる僕以外の大勢の人にとっては、ただの高校生の、ただそれだけの存在かもしれない沙織ちゃん。特別な才能も力も無い、笑って泣いて悩んで怒る、ただの一人の人間でしかない沙織ちゃんは。
でも、僕にとってはあの日から『特別』になった。
ただの人間だけど、僕の心の中では、彼女は特別な存在。僕にとって、僕の心にとっては、ただ一人の絶対に失いたくない大切な女の子なんだ。真っ赤な夕陽が差し込む教室で交わした約束。
真っ赤な夕陽が差し込む教室で交わしたキス。
きれいだなと思った。
夕陽をきれいだと思った。夕陽に照らされた世界がきれいだなと思った。
夕陽に照らされた沙織ちゃんの横顔は、とてもきれいだなと、思った。
ただのなんでもないものは、本当はなんでもないものじゃなかった。きれいなものと、汚いモノとがまじりあってることに、僕は気付いた。心一つで、その存在は特別なものにも、ただのなんでもないものにも変わりえることを。
僕は今、素直に「きれいだな」と、言える自分のことを、前よりも、好きだと思う。
沙織ちゃんのことを「好き」で、大切に想い守ってあげたいと思う自分のこころを、自分で「好き」だと言える。
沙織ちゃんは、あの駅前の桜を、どんな風に眺めるだろう?
あの桜を見て、どう思うだろう?
季節は春。
桜咲く季節。
一週間後は三学期の終業式で。
その終業式に合わせるようにして、桜の花咲く季節はやって来ている。
駅前の桜は、来週の頭、ちょうど終業式の日ぐらいに、ピンク色のつぼみは、ほころび始めたその小さな花びらを一斉に開いて満開となるだろう。
やさしい春風が吹く季節の、沙織ちゃんと一緒に見たい思う、桜咲く風景に変わるだろう。〜 了 〜