「雫」の主人公の叫びを聞いたとき、「ああ、オーケンのファンの人だな」と思った。
作者:著:Yu.N、挿絵:sugich |
- 序文
今にして思えば、“何かに導かれて”ということなのだろうか。
コンピュータゲームといえば、Windowsのオマケのマインスウィーパーやソリティアぐらいしかやったことの無いこの私が、「98系美少女Hゲーム」を買い、あまつさえその世界観に浸ってしまうとは!
- しおり1:前口上(ごたく)
そもそもの始まりは Nifty-serve(国内大手のパソコン通信)のホームパーティー(会員が利用できる電子掲示板。仲間内のコミュニケーション手段としてよく用いられる)で「雫」に取り付かれてしまったsugich師の書き込みを見た事から始まる。
師の書き込みはいつも“取り付かれたような”文章なので、「ああ、いつものアレね」と流していたのだが、「(私の嫌悪する)98文化圏で育まれたところの、いわゆる美少女Hゲームが Windows にプラットフォームを移しつつあるのねぇ」という感慨を受けた。大体、「98系美少女Hゲーム」はゲームといっても、DOS extender(WatcomのDOS extenderがよく使われているようですね)の上に乗っかって386プロテクトモードを使い、なおかつコンベンショナルメモリぎりぎりまで使って、あまつさえグラフィックボードをハードウェアレベルでガンガン叩く、といった事はしていない(笑)。やられているのは「紙芝居」と「目パチ」程度のアニメーション、そしてちょっとしたスクロールだ(失礼!でも、だいたいそうですよね?)。
だから、なぜ Windows に移行しないのかよく分からなかった。ほとんどの画面処理は Windows の GDI で処理できるだろうし、(言わずもがなだが) Windows の上に乗っかってしまえば音源ボードなどの個別のハードウェアについての対応はアプリケーションレベルでやる必要がなくなる。「98系美少女Hゲーム」なら Windows の利点を生かすことが出来るし、欠点(画面処理が遅い)に抵触する事はないだろう。ソフトは CD-ROM でディストリビュートし、BGM は CD-DA、さらに Windows なら98も PC/AT互換機も無い。
うん! これだ!
日本が世界に誇る「98系美少女Hゲーム」がついにアーキテクチャの壁を越え、世界にはばたく時が来たのだ!ってのはおいといて、これらの機能は Windows 3.1 ですべてそろってた。いわゆるマノレチメディア API って奴だ。CD、音声データなどは MMSYSTEM.DLL に格納されている API を発行することによってコントロールできる。
ビジネスマシン用のOSだった Windows が Windows95 になってホビーユースにまですそ野が広がって来て、このころ用意していた物がようやく活用されはじめたのだな、と「雫」の話を聞いた時に感じた訳です(前置き長いぞ!)。
これはよいことです。
この時代もうあえて DOS 使う理由ないですからねぇ(CUIにこだわるならPC-UNIXの方がはるかに優れてるし)。DOS よさらば、「98系美少女Hゲーム」よ、ようこそ Windows の世界へ!(笑)
- しおり2:実録、雫への道
きっかけが与えられても、なかなか行動に出れない人がいる。私などは特にそうだ。
映画情報誌などで「あー、これおもしろそうだなぁ」とか「あ、○○監督の新作だ」とか思っても、たまにしか見に行かない。だから「Windows で98系美少女ゲームだよ」とか云われても、実際買うには threshold が高い。
確かに Windows 上での美少女ゲームがどのように実現されているのかには興味はあったが、それだけでは一歩踏み出せない。もう一押し。今回のもうひと押しは、sugich師の Nifty-Serve での熱のこもった書き込みだったり、就職活動で不安定な精神状態であったりした。
何といっても今年の就職戦線も厳しく、さらに筆者の様に年を食った学生は企業の方も嫌がる。「俺は来年どうなるんだろうか」という不安の中であちこち飛び回っていた。そんな状況下で面接が終わりようやく就職活動に目処がついた、そんな開放的な気分で秋葉原なぞに出てしまったのが“運のつき”、であっただろうか。某社は面接に英語の試験などを出し、疲労困ぱいのていで秋葉原にたどり着いた。
「何かソフトを買おう」という軽い気持ちだったが、たどり着いた時には「『雫』か……」という気分になっていたのだから、人間良く分からないものだ(笑)。
ふらふらとPCゲームソフトを売っていそうな店に入り、18歳未満お断りのコーナーに入る。よくしたもので、こういう時は品切れにはなっておらず、「私を買って」とばかりに CD-ROM のジャケットが目に飛び込んで来る。
「天佑か……」、思わず手に取る。¥6100。少々高め。しかしCD二枚分くらいか(LDと同じくらいか)。
「よし、買おう」
今にして思えば(月並みな表現だが) CD-ROM から命令電波が出ていたのだろうなぁ。仙台へと帰る(注:筆者は仙台在住の学生である)の新幹線の中、「雫」の事ばかり考えている。
何が「雫」なのだろうか、むむむ。
帰宅して、早速 CD-ROM をトレイに突っ込む。Windows のソフトウェアとは一味違ったインターフェースのウィンドウがディスプレイに浮かび上がる。プルダウンメニューがなく、98系ゲーム初心者には少々不親切な作りである。マウスの右クリック(Windows95 ユーザーなら何かわからない時は取りあえず右クリックする物だ)でメニュー画面が出るので、「なるほど」と思う。
そして………。はまった。
まさにこれこそ「はまる」という奴だ。
何が、って終わらない日常の中で世界を燃やし尽くす妄想をたぎらせる冴えない少年が、あまりにかつての私だったから。
「過ぎる」ほど感情移入してしまった。
マウスを握る手が汗ばんでしまう。
- しおり3:悲しきダメ人間
「なつみさんは指輪を弄ぶ手をピタリと止めて、静かに振り返った。
ひぃ、と小さな悲鳴を上げて、おせっかいな同級生は後ずさった。
なつみさんの瞳は、どろりとしていた。
沼の底から満月の夜にだけ息を吸いに浮かび上がる、鯰のような彼女の瞳は、
何も見てはいなかった。
誰の目にも彼女の精神が崩壊しているのは明らかだった」
(大槻ケンヂ著「新興宗教オモイデ教(角川書店)」より)大槻ケンヂ、多才の人。
ロックバンド「筋肉少女帯」ボーカルが本業だが、トーク番組の司会をし、映画で忍者を演じ、エッセーを書き、あまつさえ小説までモノしてしまった。その処女作がこの「新興宗教オモイデ教」だ。「新興宗教」というタイトルから予想される話ではない(書かれたのは5年前だ)。
主人公はパッとしない少年。鳩のように群れる「つまらない奴等」を唾棄し、世界を燃やす妄想にひたる。そんな彼が唯一「つまらくない」人と思っていた少女は、教師にもてあそばれ捨てられた挙げ句発狂する。
少年が少女と再会した時、少女は「オモイデ教」という新興宗教に入っていた。
少女は自分が人の心を狂わせる「誘流メグマ祈呪術」を使う事ができる、と語る。「あなたは誰かくるって欲しいと思ってる人がいる?」と聞かれ、少年は少女を捨てた教師の名を告げる……。この様な出だしで「新興宗教オモイデ教」は始まる。
そう、あきらかに「雫」は「オモイデ教」の影響を受けてる。それは相手の心を狂わす「メグマ波」が出て来る様な小道具だけだけでなく、はしはしの文章表現(どろりとした目、とか)や、そして何より世界を壊す妄想に駆られる少年の造形が。世界を燃やそうとする少年は筋肉少女帯の曲に何度となく現れる重要なキャラクターだ。
平穏無事な人生を口先では唱える少年に仮面の男が叫ぶ。
「おまえの思い云ってやろう!
ダメ人間はびこるこの世、マイト一発爆発させて」
(踊るダメ人間。「断罪!断罪!また断罪!」に収録)
「蜘蛛の糸を昇っていつの日か見下ろす。
蜘蛛の糸を昇って、いつの日にか、燃やして、焼き尽くしてやる」
(蜘蛛の糸。「レティクル座妄想」収録)誰かがジルバを踊ればみんながジルバを踊り出す、この下らない世界を焼き尽くす白昼夢を少年は見る。
自分はジルバなんか踊らない。
自分はこんな奴等なんかとは違う、優れた人間なんだと少年は自分に言い聞かせる。
しかし、本当はただ妄想だけが肥大化しただけの、現実の能力を何一つもっていない少年にすぎないのだ。少年は自分の妄想する世界でだけしか力を発揮することが、決断をすることができない。
白昼夢の中、命乞いを哀願する人々を見下しながら爆弾のスイッチを押す瞬間に興奮し、じっとりと汗をかくだけ。霊感少女と同じだ。
霊感少女は「自分には霊感がある」ということによって、あたしは他のくだらない人とは違うのよ、といって差別化をはかろうとしている、だけの存在だ。目にみえないものに頼って自分のいやららしい自尊心をなぐさめている(大槻ケンヂ「僕はこんなことを考えてる(角川書店刊)」を参照)。「雫」作中、新城さんが霊感少女を怒るシーンが出て来る。新城さんは霊感少女に対して怒っているのだが、その怒りは「目にみえぬもの、かたち無きもの(織田信長 (^^))に頼っている主人公を間接的に撃つ。
なかなか渋い脚本である。狙いすぎである。閑話休題。
「雫」の主人公の叫びを聞いたとき、「ああ、オーケンのファンの人だな」と思った。
「雫」の主人公も現実の力はなく、自ら何かをしようとはしない。
何かをしよう、と思ったから物語は始まるのだろう。
しかしそのモチベーションは「狂気」を求めるというネガティブな物ではあったが。そしてやはり、オーケンの曲もう一人の重要な登場人物、暗黒少女(「ロッキンオン・ジャパン」の小田島女史の命名)も「雫」には出てきた。
暗黒少女、それは少年を暗い想念の世界へといざなう道先案内人。
小春日和の日差しの中、あいまいな笑みを浮かべ、「こっちだよ」と誘う。世界を滅ぼしたい少年があこがれる暗黒少女は、くだらない人たちの中にいる唯一「くだらなくない」存在だ。少女がもう一つの世界(狂気の世界)からその世界に少年をいざなう、という「雫」の展開は「オモイデ教」を、筋肉少女帯を思わせずにはいられない。という訳で私は暗黒少女である「瑠璃子さん」が一番なんですが(笑)。
「雫」で不満だったのは、少年があまりに素直に自分の抱いていた妄想、世界への嫌悪を「反抗期のような物」と捨ててしまう所だ。
「反抗期」は確かに去ってゆくけど、それは「それを認めたくないが認めざるをえない悲しさ」が伴う物だと思う。なんか「ふてくされてばかりの10代も過ぎ、分別もついて年を取り(小沢健二、「愛し愛されて生きるのさ」アルバム「ライフ」収録)」みたいで、ちょっと……である。その点「オモイデ教」の終わりかたは切ない。
少年は「この世を燃やしたって、一番ダメな自分は残るぜ(ダメ人間)」ということに気づく。気づいて「それでも生きてゆかざるを得ない」、自分が無視してきた世界に放り出される。
だからクライマックスで月島さんの毒電波攻撃を受けながら、「反抗期だったのだ」、と悟ってしまうのはちょっと素直すぎ、あっさりしすぎてる(敵に攻撃されながら妙に悟るなよ)。
ここが残念なところだった。また、「トゥルーエンド」では「瑠璃子さん」は主人公の所に戻って来る。
安易なハッピーエンドのこれよりは、「怒りのあまり月島さんの精神を破壊し、それを悲しんだ瑠璃子さんは自ら兄の行った世界へと寄り添うように旅立つ」、というエンディングの方が、切なくてよかった。
少年は妄想の世界から現実の世界へと戻って来る。少年は生きる意義を見出したからだ。しかしその生きる意義、瑠璃子さんはもう一つの世界に旅だってしまった……の方が、切なくてたまらなくていいのに(勝手な物言いだなぁ)。
- しおり4:付記
「雫」を開発した「Leaf」のみなさん、「雫」は私に新しい世界を見せてくださいました。
ありがとうございます。
次回作は「神のいたずらか、墓場から14から16歳の少女が蘇り、街を歩く。少年は恋人を失った悲しみを忘れるため、この少女たちをもう一度眠りに就かせる再殺部隊に入る。そして、少年は恋人に出会うのだ(再殺部隊。「ステーシーの美術」収録)」で行きましょう(笑)。しかし、画面構成とかゲームのバランスとか、ゲームとしての感想をじぇんじぇん書かなかったな。
これでいいのか?
これでいいのだ。
〜 了 〜