当ページで好評連載された「梓、旅立ち」のおまけ劇場(穴埋め連載)。 |
著:ぱえ、挿絵:sugich |
そのいち(1997/03/07) 駅前の商店街にたどりついた梓は大きく息を吐いた。
「ふぅ。やっとここまできたよ」
道中何度かの試行錯誤の結果、風呂敷き包みは背中に移動し、首の前の結び目を右手が学生鞄と手提げ袋を左手が受け持っている。両肩にはスポーツバックとクーラーボックスが提げられていた。
「それにしても、いい加減くたびれてきたなぁ。
・・・みんなの気持ちはとってもよく分かるんだけど。
こんな格好、知り合いにでも見られたらたまったもんじゃないし」少し遅めの通勤、通学の人々で商店街は比較的賑わっている。
きょろきょろとあたりを見回して自校の生徒の姿が視界にないことを確かめると、ほっと安堵の息を漏らす。
「アーケードを抜ければ駅はもうすぐそこ。
乗り換えはあるけど、電車に乗っちまえばこっちのもんだよな」
眩しそうに目を細めながらアーケードの入り口を見上げる。
額にはうっすらと汗が浮かんでいた。つうっ。
流れ落ちる一筋の滴。
梓はアーケードに足を踏み入れると、通路の端に手荷物を下ろして額の汗を拭った。
アーケードの中は半透明の屋根のおかげで直接日が当たることはない。
少しひんやりとした空気は火照った身体に心地よかった。その時、ふいに背後から聞きなれない声が耳に響いた。
「もしもし・・・お嬢さん?」
そのに(1997/03/08) 「は、はぃっ」
ぎくっとして振り向く梓。
そこには少しくたびれた黒いコートを着た中年男が立っていた。
当然、梓に見覚えはない。「荷物、大変そうだねぇ。これから、どこかへ行くのかな?」
中年男は人なつっこそうな笑顔を浮かべている。
歳は、その額の広がり方からおそらく四十くらいだろうか。もう少し若いといわれればそんな気もするし、もっと歳だといわれればそんな気もするので、はっきりとは分からない。
よくいえば人のよさそうな、悪くいえば少々間の抜けたような笑いが、この男についての判断を鈍らせているような気がした。
「あの、あたし急いでますんで。
ホン様のために祈らせてくださいとか、新型タワシ詰め合わせの押し売りとか、そうゆうの一切お断りですから」
「はぁ?」
男が首をかしげる。
梓は荷物を持ち直すと足早に歩き出した。「お、おいおい・・・ちょっと待ってくれないかなぁ」
慌てて中年男が梓の前に回り込む。ほんの少しの距離しか走っていないにもかかわらず、大きく肩で息をしている。
「はぁ、はぁ、まいったなぁ、もう」
「そこ、どいてください。でないと人を呼びますよっ」
強い口調で声を発した梓が、キッと男を睨みつけた。
そのさん(1997/03/09) 「はぁはぁ・・・まぁまぁ、落ち着いて。
はぁ、決して怪しいものじゃ、はぁ、ありませんって」
梓の視線をさらりと受け流す。息が上がっているのでうまく言葉が続かないが。
なおも不審そう睨め付ける梓に、
「・・・おっと。わたくし、こういう者なんですが」
何かを取り出そうとして、男は右手でコートの内ポケットをごそごそと探し始めた。
しばらくしてそこを諦めると、今度はコートの左右のポケットにも手を入れてみるものの、目的のものはみつからないらしい。
「あれ?おっかしいな・・・?」「おじさん。普通、名刺とかって、背広の内ポケットやワイシャツのポケットに入れおくものだと思うんですけど」
たまりかねた梓が口をはさんだ。
中年男はばつが悪そうに髪の薄くなり始めた後頭部に手をやりながら、
「おぅ、そうかそうか。ありがとう、お嬢さん・・・どうも最近物忘れがひどくてねぇ。
あ、今日は背広ではなくてセーターだったか」
後半はひとり言のように小さくつぶやく。「・・・お、あったあった」
セーターの下のワイシャツのポケットからようやく取り出された皮製の手帳を見て、思わず梓は声を上げた。
「け、警察ぅ!?」
そのよん(1997/03/11) しげしげと中年男の手にある黒い手帳を見つめる。
あまり物を丁寧に扱う方ではないのであろう、手帳の角は折れ曲がり、色もかなり褪せてしまっている。男の着ているコート同様、くたびれた印象は拭えない。
とはいえ、一部が剥げかかったように見える金色の印は、紛れもなくそれが警察手帳であることを示していた。「え? えっ?」
きょとんとして今度は男の顔に目を向ける。
あいかわらずのにこにこ顔と、どことなくうだつの上がらなそうな風貌。
私服、ということは刑事なのだろうか。
こういっちゃなんだけど、刑事さんっていうにはちょっと誠実さが足りなそうだよなぁ、などと考えていると、
「そうそう、名前がまだでしたっけ。わたくし、長瀬といいます」
「ははは・・・ども。あたしは柏木あず・・・うっ」
ぺこりと頭を下げて、何気なく返答しかけた梓が、はっと何かに気付いたように慌てて口をつぐむ。
「あぁ。柏木さん、ですか」
「えーと、あの・・・その・・・あはは・・・」
引きつった笑いが顔に浮かぶ。
今さらながら、刑事が声をかけてきた理由が分かったような気がした。世間一般の常識に照らし合わせて考えると、風呂敷包みをはじめとするたくさんの荷物を持った女子高生が学校へも行かず駅に向かって歩いている、というのは非常に誤解を招きやすいシチュエーションである。
この姿を見かけた誰かが、不審に思って警察に連絡したとしてもなんら不思議はない。
梓は改めて自分の立場を理解した。
そのご(1997/03/12) しばらくの沈黙のあと、声を発したのは長瀬刑事の方が先だった。
「あのぉ、柏木さん?」
「あ、あたしっ・・・そそそそそんな家出してきたとか、そっそういうのじゃないんですっ」
その言葉に反応したように梓が声を上げる。
気が動転しているためか、うまくろれつが回っていない。
「ええっと・・・その・・・本当なんですっ。
こ、耕一の・・・ええと、あの・・・そうそう、従兄弟なんです。
あいつ今一人暮らしで風邪引いて寝込んじゃってて、なんかろくにものも食べていないっていうし、今朝は今朝で楓も初音も泣き出しちゃうし、千鶴姉は山ほど変なもの持たせるし、でもみんなあいつのこととっても心配していて・・・」
「はぁ?・・・まぁまぁ、落ち着いて」
なんとか静めようとする長瀬刑事などはお構い無しである。恐らく、自分自身でもなにを言っているか把握してないだろう。「あたしは幸い補習期間中だからってことでこうやって看病に行けるんだけど、ほんとはみんな行きたいんだろうなぁって思うと、なんかこう・・・泣けてきちゃって・・・。
だからみんなの気持ちはあたしが絶対あいつに届けるんだって。
でもでも補習っていっても高校はきちんとあるわけで、あたしも受験生だし学校さぼるのはいけないなぁって思うとやっぱりちょっと後ろめたくって・・・だから・・・お願いです。
見逃してくださいっ」
身振り手振りを交えながら機関銃のように一気にまくし立てると、梓はふかぶかと頭を下げ、両手を頭の上に合わせた。「あの・・・なにがなんだかよく分からないんですけど。
それに見逃すもなにも、わたし今日非番なんですけどねぇ」
長瀬刑事が苦笑混じりにぼそっとつぶやいた。
そのろく(1997/03/13) 「へっ?」
きつねにつままれたような表情の梓が顔を上げる。
その瞳に映るのは、ほんの少しだけ眉をしかめたように見えるだけで、さっきとの違いがほとんど分からない笑い顔。下顎には何本か剃り残した長めの無精髭が見えた。「おじさ・・・じゃなかった、刑事さん。今、非番って」
「えぇ。いいましたよ」
「ってことは、あの、パトロールとかっていうんじゃ」
「えぇ。そんなのじゃありませんよ」
「・・・するってぇと、あっしをお縄にしようってぇわけじゃ」
「えぇ。そんなことをするつもりは全くありませんよ」
どの台詞にも対しても同様に長瀬刑事がにこにことうなずく。
梓はちょっとがっかりしながら、
「だっ、だっだって。け、刑事さんさっきあたしに警察手帳見せて『わたしはこういう者です』って・・・」
「あぁ、あれですか。あれはわたしが怪しいものじゃないってことを知っていただくためにお見せしたんですよ。
だって、ああでもしないと柏木さん。あなた、納得しなかったでしょう?」
「そ、そりゃまぁ・・・そうですけど」
図星をさされた梓がしぶしぶうなずく。
どうやらまだ納得していない様子でなにやら考えていたが、
「そうだ! じゃあ、なんであたしに声をかけてきたんです?」
「え?」
怪訝な顔で聞き返す長瀬刑事に向かって勝ち誇ったように、
「だってそうじゃないですか。
非番で別にあたしに用があるわけでもない刑事さん・・・ううん、おじさんが、普通に歩いてるだけのあたしに声をかけ・・・」
ここまでいいかけて、梓は今の自分のいでたちに気が付いた。
そのなな(1997/03/14) 「あたしってば全然、普通じゃない・・・ですよね」
半ば自嘲気味につぶやく。
そして長瀬刑事が声をかけてきたときの状況をもう一度考えてみる。大人の男でもこれだけ持つのは難しいであろう、というくらいの荷物。
アーケードの端で立ち止まって額の汗を拭う。
そんなときに人のよさそうなおじさんが声をかけてくる・・・。この状況を客観的に判断すると、ある一つの結論が導き出された。
梓は口の端を引きつらせながら、
「こ、これって・・・もしかして。
『荷物が大変そうだから手伝いますよ』とか、それだけのことなんじゃ・・・?」
「えぇ。そうですよ。
だから最初に言ったじゃないですか。『荷物、大変そうだねぇ』って」
長瀬刑事が変わらぬ調子でうなずく。
あまりに予想通りの答えにがっくりと肩を落とす梓。「は、はは・・・ははは・・・ふぅ」
疲れたように力なく笑う。持っている荷物が今までの何倍もの重さになったような気がした。
「それにしても、すごいですねぇ。
わたしじゃ絶対こんなに持って歩けないですよ」
そんな梓の様子を気にする風でもなく、長瀬刑事が感嘆の声を上げる。
そのあとで苦笑しながら、
「あ、もっとも私の場合は腰痛持ちだっていうせいもありますけど」
と、付け加えた。
そのはち(1997/03/15) 「あの・・・その。お心遣いはとってもうれしいんですけど。
あたし一人で大丈夫ですから」
気を取り直した梓が、丁寧に断りの意を示す。
長瀬刑事はとんでもないという風に、
「いやいや、か弱いお嬢さんが困っているところを見逃したとあっては、末代までの恥ですからねぇ。・・・それに」
「えっ? か弱いって? あたしが?・・・あはは・・・えーとその・・・」
頬を赤く染めてぽりぽりと鼻の頭を掻く梓。「わたしにとっても非常にありがたい出来事だったもので・・・ね」
そんな梓には聞こえないくらい口中のつぶやき。
ほんの一瞬だけその目の奥に、何か今までと違う輝きが見えたような気がしたが、
すぐにそれは消えていつものにこやかな表情へと戻っている。「あ、ほんとに大丈夫ですから。
ここから駅までなんてすぐだし、あたし、こう見えても結構力には自信あるんですよ、ほら」
梓は下に降ろしていたスポーツバックやクーラーボックスを、ひょいと持ち上げて長瀬刑事に笑いかけた。
「おぉ、すごいですねぇ。確かにこれでは私の出る幕はなさそうだ。
でもさっきの様子だと、かなり疲れていたようでしたが?」
「あ、それは・・・あたしの家ってここから結構離れていて。
ほら、あの住宅街の一番奥の方っていって分かります?」
「えぇ。分かりますよ。
・・・というと、もしかして柏木さんって、あの・・・鶴来屋の?」
長瀬刑事がさも驚いたかのように尋ねた。
そのきゅう(1997/03/16) 「はい。そうですけど、それがなにか?」
「いえいえ、別に。柏木の美人四姉妹の噂はわたしも聞いていますからね。
なるほど、これは噂になる訳だ」
納得したようにうんうんとうなずく長瀬刑事に向かって、
「からかわないでくださいよ、もう」
梓が真っ赤になりながらつぶやく。「いやいや、これは失敬。
でも、ひとことだけいわせていただけないでしょうか?
一応、わたしもこういう職業なんで」
「え?」
「学校は、できるだけさぼらない方がいいと思いますよ。
なんて、わたしも学生時代にはよくさぼっていましたがねぇ」
目を閉じて懐かしそうに苦笑する。
梓もつられて苦笑するが、目の前の中年刑事の高校時代の様子を想像することはできなかった。
なぜかは分からないが、なにかもやもやした霧のようなものが、はっきりと想像することを邪魔しているような気がした。「それと、家族の方はこのことを知っておられるのですか?
無断で家を出したりすると、皆さん心配しますよ」
「ええっと、それは・・・もう、みんな知ってます。
本当は言いたくなかったんだけど言わざるえなくて、というか、なぜかみんないつのまにか気付いていたっていうか。
・・・うーん、どうしてなんだろう?」
不思議そうにひとりごちる梓に、長瀬刑事はいたずらっぽい笑いを浮かべながら、
「ははぁ。理由はなんとなく分かるような気がしますけど、ね」
「そ、それってどういう意味です?」
「まぁ、その・・・お嬢さんがとっても素直で素敵な方だってことですよ」
「はぁ?」
梓がさらに不思議そうに首をかしげた。
そのじゅう(最終回)(1997/03/16) カーン、カーン、カラン・・・ふいに、アーケードの中央付近にある大きな仕掛け時計が、複数の鐘による金属の旋律を奏でる。
「ええっ、もうこんな時間なの! 急がなくちゃ電車に間に合わないよ。
・・・あの、ほんとのほんとにあたしは大丈夫ですから」
あたふたと荷物をまとめながら長瀬刑事を見上げると、はっきりとした口調で自分の意志を示す梓。
「そうですか。それでは仕方ありませんねぇ。
本当はもっといろいろとお話をお聞きしたかったのですが」
長瀬刑事はいかにも残念といった風に二度、三度と首を振る。
そして小さくため息をつくように、
「まぁ、そのうちまたお会いすることになりますがねぇ」……かすかなつぶやきは、果たして梓の耳に届いたのか。
梓は支度を整えると、元気よく立ち上がってぺこりと頭を下げる。
「いろいろと、ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、こちらこそお役に立てなくて。
それにずいぶん長いことお引き止めしてしまって、申し訳ありません」
すまなそうにふかぶかと頭を下げる長瀬刑事を見た梓が慌てて、
「そんな。気になさらないでください。
もとはといえばあたしの勘違いが原因なんですから」
苦笑いを浮かべるともう一度、今度はふかぶかと頭を下げた。「それじゃ、あたしはこれで」
梓は身体をくるりと回転させると、駅に向かって走り出す。
長瀬刑事は人のよさそうな笑みを絶やすことなくその後ろ姿を見送る。
やがて、互いの姿は人混みの中に埋もれて見えなくなる。「気を付けて行ってらっしゃい。
・・・それから、柏木千鶴さんによろしくお伝えくださいねぇ」最後に梓は、背中でそんな言葉を聞いたような気がした。
〜 おしまい 〜