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「もう、おじさまったら。きちんと見てくださらないと、駄目です」
千鶴は怒ったようにぷいっとそっぽを向くと、そのまま視線を落とす。俯いた彼女の頬は、うっすらと朱に染まっていた。ほんの少しの沈黙。
胸の前でワンピースをぎゅっと握りしめた千鶴の両手が、なにかを俺に訴えかけているような気がした。俺の呼吸が荒くなり、鼓動が早鐘のように身体中に鳴り響く。
「あの・・・やっぱり、ちゃんと着てみた方がいいですか?」
「あぁ・・・」
どこか遠くで、そんな千鶴と自分とのやり取りが聞こえていた。俺はいったいどうしてしまったんだ?
千鶴はワンピースをベッドの上に置くと、身体をひねるようにしてタイトスカートの横のファスナーを下ろしていく。窮屈そうに脱ぎ終ったスカートの下からは、ベージュのパンティストッキング現れ、その下には白いショーツが透けて見えている。
ドクッ。
横を向くようにして首をかしげる千鶴。左手で髪をかき上げながら、右手でブラウスの背中の止め具をはずそうと、首の後ろへと手を伸ばす。手からこぼれた漆黒の髪が、さらさらと流れ落ちて白いうなじにかかる。
ドクッ、ドクッ。
それはぞくぞくするほど刺激的な光景だった。俺は、自分が鳥肌が立つほど興奮していることに気付いていた。
「あんまり・・・見ないでくださいね」
先程よりも頬の朱を濃くした千鶴が、小さくつぶやく。慎ましげに伏せられた睫毛がかすかに震えていた。ドクンッ。
それは俺の心臓の音だったのだろうか?
・・・いいや、そんなモノじゃない。
それが何であるかを、俺は知っている。夜毎、俺の悪夢を生み出し続けているモノ。
兄貴を狂気の淵へと導いた、人ならざる力を持つ存在。
自分自身の心に潜む、もう一人の俺。鬼。
狩猟者。身体中の毛穴という毛穴から、冷たい汗が吹き出していた。
俺はどきっとして我にかえる。
どこかでそれが、すでに手遅れかもしれないということを感じながら。
まずいっ。
今や千鶴の身体を隠すものは、胸を覆う小さなブラジャーと、腰から下のストッキングとショーツだけになっていた。きめ細やかなその白い肌は、ストッキング越しに軽く爪でなぞっただけでも、いとも簡単にぱっくりと裂け、鮮やかな紅色に染まるような気がした。
ソノウツクシキオンナノ。
ソノウツクシキエモノノ。パンティストッキングをずらすように下ろしてから、静かにベッドに腰掛ける千鶴。片足ずつストッキングをたぐりながら抜き取っていく。下にはブラと揃いの小さなショーツが残されるのみだった。今の千鶴の目には、俺への警戒の色など微塵も映っていないに違いない。
俺の目には、美しい肢体をあらわにしている無防備な女としてしか映っていないというのに。
俺の目には、一匹の素晴らしい獲物としてしか映っていないというのに。ニオイタツウナジニ。
スキトオルシロイハダニ。こんなに強く奴の干渉を受けるのは初めてだった。自分の意志と奴の意志との境界が曖昧になり、奴が俺の中に入ってくるのが分かる。
欲望。恐怖。快感。本能。
頭の中に、ドロドロに煮えたぎった金属を流し込まれたような感覚。千鶴はベッドの上のワンピースを手に取ると、ゆっくりとそれに袖を通してゆく。清楚という言葉の影に見え隠れする、あでやかさと艶めかしさ。そしてその薄い布切れの下には、奴の求めて止まない最高の肉体がある。
いつの間にか、俺の口の中はカラカラに乾ききっていた。無意識に開かれた口から、肺に空気を送り込むためのヒューヒューという耳障りな音だけが、俺の中で不気味にこだまする。違う。それを求めているのは奴じゃない。
それを求めているのは・・・俺だ。
・・・なぜなら、奴は俺自身なのだから。額に玉のような汗が浮かび、幾筋も流れ落ちる。これ以上、自分のこんな姿を千鶴に見られる訳にはいかなかった。それよりも、このままでは俺が千鶴に何をしてしまうか分からなかった。
俺は椅子から立ち上がり、部屋を出ていこうとする。だが、二三歩足を前に進めただけで、よろよろとそのまま床に倒れ込んでしまう。それはまるで、俺の意志に関わりなく、身体がこの場から離れることを拒むかのようだった。キバヲツキタテテセンケツヲススリ。
ツメヲツキタテテニクヲエグリ。おぞましくも甘美なささやきが、俺を支配しつつあった。激しい喉の渇きに、両手で喉をかきむしる。その渇きは、ヒトの身体からほとばしる美しい真紅の液体でしか癒すことのできないことを、俺は知っていた。
「お、おじさまっ!?」
「クルナッ!!」
驚いて駆け寄ろうとする千鶴を、ありったけの力を振り絞ってなんとか制する。一瞬、ビクッと身体をこわばらせる千鶴。その声はうなりを帯びて、いつもの俺の声とは似ても似つかぬ、まるで獣かなにかの咆哮かのように聞こえた。グルルルルルルルゥ・・・
くぐもったうなり声が俺の喉から発せられる。俺は金縛りにあったかのように、じわじわと身体の自由を奪われつつあった。俺の意志が急速に弱まっていくのと同時に、自分の中に得体の知れない力が沸き上がるのを感じる。その力はみるみるうちに大きくなり、全身へと広がっていった。
負けるものかっ。
俺が守ってやらねば、誰がこの娘たちを守るというのだ。二度と癒えない痕ならば、俺がずっとそばにいてやる。
涙が痕を濡らすのならば、俺がそっと拭い続けてやる。そう誓った。
今は亡き兄貴と義姉さんに。
俺自身に。
そして、あいつに。「やはり・・・おじさまも・・・」
薄れていく意識の中で、俯いた千鶴の頬を一筋の雫が流れ落ちるのを見た。濡れ羽色の長い髪が、細い肩が、かすかに震えていた。「スマ・・・ナ・・・」
視界が暗闇で埋めつくされていくのと同時に、自分がゆらりと立ち上がるのを感じながら、俺は意識を失った。
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