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もう、いいんだ。千鶴。
映画のコマ送りのようにゆっくりと流れていく光景。
俺は右手を振り上げ、そのまま力を込めると、細くすぼめた指先を自分の左胸へと突き立てる。大きく目を見開く千鶴。
全ては一瞬のできごとだった。バリッ。
人間の肌とは全く異なる固い表皮を破り、そのまま肉に爪が突き刺さる。直接心臓まで届かせるつもりだったのだが、鋼のように収縮した筋肉にさえぎられて、爪の勢いは半減してしまっていた。これが致命傷にはなり得ないことを感じながらも、爪をぬいた後に勢いよく吹き出す鮮血が、人間と同じ紅い色であることに、かすかな安堵感を抱く。
俺はまだ、死なないのか?
俺はまだ、死ねないのか?その答えは明らかだった。だが、この一撃によって、奴の力を相当弱めることができたことも確かだった。そして、もちろん自分が同じだけの被害を被っていることも。俺は身体の自由を完全に取り戻すと同時に、激しい痛みと出血のせいで、がっくりと膝をつく。手や肌には、ぬるぬるとした生暖かい感触がまとわりつき、左胸からは真紅の液体が流れ続けていた。
このまま、柏木の血など、一滴残らず流れ出してしまえばよいものを。
そんな自暴自棄ともいうべき考えが浮かぶ。そして、それすらも俺には許されていないことを、俺は身をもって理解させられていた。先刻の一撃が致命傷にならなかったのは、奴がとっさに筋肉を収縮させ、身体を強固な鎧へと変化させたためだった。
これが、力を操れないものの定めなのか・・・
だが、あれほど強く俺を押え込んでいた奴に、俺が決して操ることのできない筈の呪われた力に、たとえほんの一瞬だけでも打ち勝つことができたのは、いったいなぜだったのだろうか?かすかな疑問に考えを巡らすより早く、すでに俺の意識は混濁し始めていた。だんだんと視界がぼやけ、思考が明滅を繰り返しながら小さくなっていく。
「おじさまっ!」
呪縛から開放された千鶴が、俺の方へと駆け寄ってくる。ただ一点だけ、千鶴の瞳がいつもの色を取り戻していることだけを確認すると、俺の意識は再び闇の底へと沈んでいった。
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「・・・じさま、おじさまっ、おじさまっ」
俺を呼ぶ千鶴の声。ひどい二日酔いの朝のように頭がガンガンする。俺は夢を見ていたのか?
荒く息をしながら、身体を起こそうとする。その途端、身体中に感じる痛みのせいで、俺は思わずうめき声を漏らしてしまう。身体をばらばらに引き千切られたような痛み。その中でも特に、深く刺すような激しい痛みが左胸にはしる。どうやら、そのまま仰向けでいるしかないようだった。
「うっ、ううっ・・・おじさまーっ」
千鶴はほとんど全裸に近いあられもない姿のまま、俺の胸に顔を埋めていた。その顔も胸も、白い陶器のような素肌は、返り血とおぼしき鈍い赤い液体で汚されていた。千鶴の目から堰を切ったように次々と溢れる雫は、頬にべったりと付着した赤い色と混じり合い、まるで血の涙を流しているかのように見えた。夢では、なかったのだな。
俺はわずかに顔を上げて、自分の胸を見る。やはり左胸には、見覚えのない痕があった。なにか太く鋭いものを突き立てたようなその痕は、赤ん坊の肌のようにピンク色でつるつるとしていて、まるでかさぶたの下から現れた真新しい皮膚のようだった。
そのまま視線を巡らすと、少し離れた床には、見るも無残に引き千切られ、打ち捨てられた白いワンピースや下着の残骸が散らばっていた。俺は、まだ生きているのか・・・
先刻のできごとが、はっきりと脳裏によみがえる。俺は、痛みこそあるものの、すでに傷がふさがっているというあまりの回復の早さに、背筋が寒くなるのを感じた。
あたりには生臭い鉄のような血の匂いが充満していた。俺は、泣きじゃくる千鶴になにも声をかけられず、なんとか動かすことのできる右手で、ただ優しく髪をなで続けることしかできなかった。それすら、俺には許されない行為のように思えた。
そして、そうしている今でさえ、心の最深層でかすかに、しかし確実に脈動を続けるどす黒い欲望に、俺は絶望を覚えていた。この欲望が俺の心をすべて黒く塗りつぶしたとき、俺はどうなってしまうのだろうか?
「おじさま・・・」
長い沈黙のあとに、言葉を先に発したのは千鶴の方だった。
「もう少し、あともう少しだけ・・・このままでいて・・・いいですか?」
「あぁ・・・」
千鶴が俺の鼓動を聞くかのように、その顔を胸に優しく押し付ける。心地よい千鶴の肌のぬくもりと、温かい吐息が、俺の身体を徐々に癒していくような気がした。「・・・ごめんなさい」
「千鶴が謝る必要などないさ。悪いのは・・・全て・・・俺なのだから」
「でも・・・」
「まだ・・・そう・・・まだ、大丈夫さ」
俺は苦笑するように口元を歪めた。少しでも千鶴を安心させてやりたかった。もっとも、脂汗を浮かべ、苦痛にうめきながらこんな台詞を吐いたところで、信じるものなど誰もいないであろうことは分かりきっていたが。
ふうっと大きく息を吐くと、俺は再び身体の力を抜いた。「このことは、まだ梓たちには・・・」
「分かっています。今夜あった出来事は、わたしたち以外には決して知り得ないこと。・・・あの子たちには、辛い思いをさせたくありませんから」
「千鶴・・・」
「・・・それに、今までもそうしてきましたから」
俺の言葉に、こともなげに答える千鶴。だが、その台詞が彼女の精いっぱいの強がりであることは明らかだった。心を偽らなければ,生きていけないから。
心を凍らせなければ、壊れてしまうから。
心に仮面を付けなければ、自分をさらけ出してしまうから。そうやって生きていくことを、すでに千鶴は自分の生き方として認めてしまっていた。俺は、自分の不甲斐なさに胸が詰まるのを感じた。
優しい四姉妹の母親役として、妹たちを支える千鶴。
料理がからっきし駄目で、梓との口喧嘩で負けてばかりの千鶴。
いつもはのほほんとしているかと思うと、突然とんでもないことをしでかす千鶴。
こつんと自分の頭を叩くと、片目をつむりながら小さくぺろっと舌を出して、いたずらっぽく微笑む千鶴。全ての感情を消し去った真紅の瞳をもつ千鶴。
そのどれもが千鶴であり、千鶴でなかった。
だからせめて俺の腕の中にいるときだけは、飾らない、本当の千鶴でいて欲しかった。願いは・・・願いは、叶えられないものなのですか?
みんな笑顔で「おはよう」って言える朝がくるのを願うことすら、私には許されないのですか?俺は千鶴から発せられた心の叫びを思い出していた。それは、あまりにもささやかな願いだった。そしてそれは、俺自身の願いでもあった。願いが叶えられるのなら、俺のこの身など、どうなろうと構わなかった。
二度と癒えない痕ならば、俺がずっとそばにいてやる。
涙が痕を濡らすのならば、俺がそっと拭い続けてやる。八年前からの誓いを、俺はあとどのくらい果たし続けることができるのだろうか?
千鶴は俺の身体を気遣いながらゆっくりと立ち上がると、布片と化したワンピースを集め、手や顔の返り血を拭い取っていく。だが、半ば乾きかけて錆色に変色した血は、簡単には落ちないようだった。俺は仰向けのまま視線を巡らせ、ぼんやりと天井を眺めていた。「おじさま。明日は、やっぱりこのスーツを着ますね」
ぽつりとつぶやく千鶴。俺は、ベッドのそばにたたずむ千鶴の見下ろす先へと顔を向けた。ベッドの上に置かれた薄いグレーのスーツが目に止まる。それは、千鶴がこの部屋を訪れたときに着ていたものだった。
俺はそのスーツに見覚えがあった。
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