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・・・そうだ、このスーツは。
確か、去年の千鶴の誕生日に買い物に付き合わされ、千鶴が半ば無理矢理に俺に選ばせて買ったのがこのスーツだった。
今となっては苦い思い出が脳裏によみがえる。・
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「ごちそうさま。美味しかったよ」
俺は空になった味噌汁の椀を置き、箸を揃えた。いつもながら、梓の作る料理は美味い。「えへへ・・・ありがと、賢治おじさん。」
俺の言葉に、梓が顔を赤らめながら、照れくさそうに鼻の頭をぽりぽりと掻く。「叔父様、お茶です」
「あぁ、ありがとう。楓」
俺よりも一足早く食事を終えて、お茶を飲んでいた楓が湯飲みを渡してくれる。急須から注がれた熱めのお茶が白い湯気を立てていた。いつもながら、楓の食事は早い。「最近は初音が料理を手伝ってくれるから、とっても助かるよ。」
「そうなのか・・・美味しかったよ、初音」
「うぅん、わたしなんてまだまだ全然役に立ってなくて・・・」
俺と目を合わせた初音は、慌ててぶんぶんと首を横に振ると恥ずかしそうに目を伏せてしまう。いつもながら、初音の言葉は控えめだと思う。「そんなことないって。筋のよさはあたしが保証するよ・・・誰かさんと違ってね」
梓の太鼓判に、うんうんと同意する楓。梓によると、どうやら我が家で一番味覚が鋭いのは楓らしい。その楓がうなずくということは、初音の腕に間違いはないのだろう。「まぁ、後片付けなんかは楓も手伝ってくれるしね。それにしても・・・」
梓が呆れたようにある方向に目を向ける。皆まで言わずとも、梓の言おうとすることは誰もが分かっていた。卓袱台の上に用意されていたのは五膳。
食事をしているのは五人。きれいに空になっている椀や皿は、楓と俺の分。
途中まで空になっているのは、梓と初音の分。そして、ほとんど手の付けられていない椀や皿が一人分。
その料理を前にぼーっとしているのが一人。「もう、いくら嬉しいからって・・・食事くらいちゃんと食べてよね、千鶴姉」
「えぇ・・・」
「千鶴お姉ちゃん、食べないと体に悪いよ」
「えぇ・・・」
「千鶴姉さん・・・」
「えぇ・・・」
心ここにあらず、といった面持ちで生返事を繰り返す千鶴の目の前で、ゆっくりと手を動かす楓。千鶴の反応はない。楓は諦めたように手を引き戻すと、ふるふると首を横に振った。「千鶴は、いつからこんな感じなんだい?」
少なくとも朝食のときには、いつもと変わらなかったような気がする。いや、今思えば少しそわそわしてような気もする。大方の予想はついていたが、俺は念のために尋ねてみた。「それが・・・」
初音にしては珍しく、歯切れが悪い。
「わたしが帰ってきたときには、もう千鶴お姉ちゃんが帰ってきていて・・・」
「叔父様宛の荷物の前でじっと考え込んでいたんです・・・玄関で」
「あたしが帰ってきたときもそうさ。賢治おじさん、あの荷物って・・・あれでしょ?」
梓の問いかけに、俺は無言でうなずく。・・・その品物は、確かに今日届く予定だった。
「『開けるべきか、いや開けざるべきか・・・それが問題だ』って感じで、もう一人でずっと遠いところに行っちゃってたから、すぐ分かったよ」
大袈裟な身振り手振りで悲劇の主人公を演じる梓。
「あれって・・・この間、叔父様が買われたスーツですよね?」
「やっぱり、千鶴お姉ちゃんへの誕生日プレゼントだったんだ・・・」
楓と初音が納得したようにうなずき合う。・・・そもそもの事の発端は、春からは社会人になるのだからと、スーツを贈ることをうっかり千鶴に漏らしてしまったことだった。本当は、本人には当日まで内緒にしておいて、梓あたりに見立てを頼むつもりだったのだが。
「『開けちゃ駄目よ・・・ねぇ?』って聞かれて、慌てて荷物を賢治おじちゃんの部屋に移したんだけど・・・」
そのときの様子を話しながら、困ったように微笑む初音。・・・そして、実際に服を選んでみて俺は、自分のセンスのなさを改めて痛感したのだった。子供のように大はしゃぎでスーツを試着する千鶴とは対照的に、その服を見る梓や楓の目が冷ややかっだったような気がするのは、決して俺の気のせいではなかったと思う。
「誕生日は明日だから・・・それまでは千鶴姉さん、ずっとこのままかも・・・」
「まぁ、あたしとしてはこの方がうるさくなくていいんだけどさ」
「もう・・・梓お姉ちゃんってば」俺は笑いながら、千鶴に一日早く誕生日プレゼントを渡す決心をしていた。
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・まだ一年も経っていないのに、ずいぶん昔の出来事のような気がするな。
俺は自嘲するように口元を歪めた。
「おじさまに見立てていただいたこのスーツ。みんなは『地味過ぎてあんまり似合わない』なんて言ってましたけど。
私、嬉しかったんです。おじさまに選んでいただけたことが。
わがままいって見立てていただいた、初めての服ですから。
おじさまの選んでくださった、最初で・・・」
千鶴の声はそれ以上続かなかった。その頬をとめどなく流れ落ちる涙。必死にこぶしで拭おうとするものの、すぐにまた涙が溢れてしまう。ごしごしと両目をこすりながら、それでも無理に微笑みを浮かべようとする千鶴。弱くて。
もろくて。
誰かに支えて欲しくて。
それが、俺の知っている本当の千鶴だった。
俺は、涙に濡れた千鶴の笑顔を見つめ続けることができず、思わず顔を背けてしまう。これほど自分が無力で、無様に感じられたことはなかった。固く目を閉じ、込み上げてくる自分への怒りを噛み締める。
泣き崩れた千鶴の、かすかな鳴咽だけが、静寂の支配する部屋に聞こえていた。二人ともひとことも言葉を発しないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
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・「先に、シャワーを浴びてきますね」
あれからどのくらい時間が経ったのだろう。持ってきた服のうちの一着を身にまとった千鶴が、俺に声をかける。一方、俺の方はといえば、情けないことにまだ仰向けのまま、ろくに身体を動かせない状態だった。
「おじさまもこの様子でしたら、あと二、三時間もすれば回復すると思います。ですから・・・」
どこか事務的な響きを感じさせる千鶴の口調。
その頬の涙が乾く頃、千鶴はいつもの千鶴に戻るのだろうか?
その頬の涙が乾く頃、千鶴はその心を再び凍らせてしまうのだろうか?分かりきった答が俺の心に浮かぶ。
その答を知りながら、なにもしてやれない自分が悔しかった。「・・・朝までにはシャワーを浴びてらしてくださいね。この部屋の片付けは、わたしがしておきますから」
千鶴の言葉を聞きながら、俺の意識は三度、まどろみの中に溶け込もうとしていた。張り詰めていた緊張の糸が切れたように、それまでの何倍もの疲労感がどっと身体に押し寄せてきていた。
朝が来れば・・・悪い夢など、すべて消えてしまうさ。俺は、今までに起こったできごとが全て夢であることを願いつつ、静かに目を閉じる。だがそれが叶わぬ夢であることは、俺自身が一番よく知っていた。
それでも。
次に目覚めるときには。
・・・せめて明日だけは。初音がいて。
楓がいて。
梓がいて。
俺がいて。
・・・千鶴がいて。みんな笑顔で「おはよう」と挨拶をかわせる朝が来ることを願って。
「おやすみなさい、おじさま」
千鶴の優しい声と、扉の閉まる重い音が耳に届いたのを最後に、俺の意識は深い眠りの淵へと落ちていった。
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